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社会のパニックを自覚しよう ー新型コロナウイルス論考(1)ー

京都大学防災研究所巨大災害研究センター 准教授 大西 正光

いったん冷静になろう

「新型コロナウイルス」という存在を初めて聞いたときには、たった数ヶ月後に世界全体を脅かす事態にまで至るとは、感染症に関する知識を持ち合わせていなかった私には、とても想像できなかった。有名人の感染や志村けんさん死去のニュースは、多くの人々が、既に感染リスクが身近に迫っていることを実感させる契機となった。テレビやSNSを通じて、イタリアやスペインが直面している医療崩壊の生々しい実態が映像により映し出され、明日は我が身との恐怖に世界がおびえている。政府による緊急事態宣言が行われ、より不安感が高まっている。一方で、もはやリーマンショックを超える影響が予想される中、「経済的重症者」への措置も待ったなしとなってきた。専門家も含めて誰にも今後の推移が見通せず、あまねくすべての人が大きな不安を抱えている。不安が渦巻く世界では、多くの意見や情報が飛び交う「社会的パニック」が生じることは自然なことである。しかし、個人個人が、社会的パニックの真只中にいるという自覚もなく振る舞い続ける限り、パニックは解消するどころか、より増幅してしまう可能性がある。その上で、「皆さん、こんな状況では社会的パニックになるのは当然である。本稿では、だからこそ、社会的パニックになることはある意味で仕方ないことだと受け止めて、慌てず冷静になりましょう」とお伝えしたい。

社会的パニックとしてのトイレットペーパー騒動

トイレットペーパー騒動はまだ記憶に新しい。買いだめ行動が発生するメカニズムは、ゲーム理論という理屈を使えば、個人個人の合理的に振る舞った結果として生じる帰結である[1]。まず、トイレットペーパーがなくなるという情報が現れる。次に、誰かがそれを信じてトイレットペーパーを買いに走ったという情報が流布する。さらに、その情報を見た市民は、店頭からトイレットペーパーが消えることを予想して、買いだめ行動に走る。こうした現象は、「トイレットペーパーがなくなる」という情報は根拠のない憶測に過ぎないが、その真偽に問わず、こうした事態は必然的に生じる。

トイレットペーパー騒動は、まさにパニック(panic)を呼ぶに相応しい事態であろう。そこで、パニックの意味を調べてみると、いろいろな定義があるようだが、手持ちのCambridge Advanced Learner’s Dictionaryによれば、「a sudden strong feeling of fear that prevents reasonable thought and action(合理的な考えや行動を妨げる突然の強い恐怖感)」とある。パニックを表す要件として、「合理的な考えや行動を妨げる」とある。トイレットペーパーがなくなるとの予想が社会に共有されれば、当然すべての人がトイレットペーパーを確保したいと思う。個人は合理的に行動しているのだが、個人の行動が折り重なることによって、社会がパニックに陥るのである。以下では、これを「社会的パニック」と呼ぼう。

混沌という社会的パニック

世の中には、新型コロナウイルスに関する実にさまざまな情報や意見が溢れかえっている。本稿もその1つかもしれない。こうした情報や意見は、あたかも全方位から飛び交う弓矢のようであり、全体としてどの方向に飛んでいるのかも見分けがつかない。まさに「混沌」である。

「混沌」の本質的な原因は、妥当な判断を下すための、ある程度確実かつ信頼できる情報・分析及び社会で受容されている規準が欠如していることにある。誰もが認める情報や規準が欠如した社会では、皆、それが社会で受け入れられるどうかをあまり配慮せず、個人個人がある意味で好き勝手に意見を言い合うことになる。現在の状況に対して、そうした感覚を持つ人も少なくないのではないか。

心理学において、「認知的不協和」と呼ばれる理論仮説がある。イソップ物語の「キツネと酸っぱいぶどう」の話がよく例え話として引き合いに出される。キツネは、ぶどうを見つけて食べたいと思う。しかし、ぶどうは高いところにあり届かない。キツネは、美味しいぶどうにありつけないという心理的葛藤に直面する。こうした葛藤を克服するために、キツネは、「あのぶどうはきっと酸っぱいに決まっている」と考えることにした、というお話である。ぶどうが酸っぱいかどうかは、実際には分からない。しかし、自身の中で異なる認知を抱えたとき、人はしばしば根拠のないことでも信じようとしてしまう。こうして、世の中には、認知的不協和が溢れかえれば、もはや収拾がつかない状況になる。

何が正しいのか、誰もが分からない環境の中では、敢えて不安感を煽るような根拠薄弱な憶測情報[2]や意図的なデマ情報[3]が流布する。特に、SNSが発達した現代社会では、インフォデミック[4]という言葉に象徴されるように、ウイルスと同様、嘘か本当かの区別がつきにくい不確かな情報も含めて膨大にかつ素早く世界に拡散されるため、社会的パニックはより増幅しやすい。

見えにくい社会的パニックを自覚する

先程の「実に多くの意見、情報、憶測が世界を飛び交う「混沌」の世界」も、トイレットペーパー騒動と同様に社会的パニックである。トイレットペーパー騒動は目に見えて分かりやすい現象である。しかし、混沌世界ではメディアも混沌を生み出すプレイヤーとして埋没している。混沌世界というパニック現象自体をメディアが取り上げることもないため、自覚しにくい。自らがこうした混沌世界に佇んでいるということに気づかず、日々メディアから入ってくる情報や意見に流されれば、自分が何をやっているのか分からなくなり内部崩壊を起こしてしまう。混沌世界は、まさに「見えにくい社会的パニック」である。

社会的パニックの克服法

見えにくいからこそ厄介であるが、この社会的パニックを自覚しなければ、社会はもとより個人も正気を取り戻すことができない。では、どうやって社会的パニック状態から抜け出すことができるのか。その要件は、月並みであるが、それぞれ個人が社会的パニックの状態にいるということを自覚した上で、社会的パニックから脱出するために個人個人がどう振る舞えば良いのか、という視点で物事考える冷静な態度を取り戻すことである。

わかりやすい方のトイレットペーパー騒動の例で、そのことを説明してみよう。買い占め行動が回避されるためには、一人一人がトイレットペーパーは通常通り安定的に供給できることを信じると同時に、自らの買い占め行動自体が騒動を引き起こしていることに気づく必要がある。すなわち、トイレットペーパー騒動が社会的パニックであることを自覚する必要がある。買い占め行動は、これが社会的パニック現象であることを自覚した上で、自らの行動の帰結を社会的観点から相対視することによりはじめて、自らの欲望や感情ではなく、社会のためにすべき行動を考える「自制」が可能となる。

見えない社会的パニックも同様である。身の回りのコロナ対策に関するさまざまな意見がある。意見や批判は重要である。SNSやメディアで多くの意見が提示されることは好ましいことである。特に、未曾有のコロナ禍においては、予想もしないさまざまな出来事が起こる。こうした事実を共有して、皆で考えることは必要不可欠である。一方で、決めつけてかかり、他の意見を寄せ付けないような言い方で意見や批判を行う態度は、現在が誰も何が正しい判断なのかについて確かなことが言えない混沌世界にいるという事実を正面から受け止めていないことを示している。つまり、こうした態度の人は、社会的パニックの渦に埋没しているのである。何が正しいのか分からないことを理解すれば、意見や批判の仕方はより謙虚になるであろうし、他の意見にも耳を傾ける余裕が生まれるであろう。もちろん、そんなことを悠長に言っている場合かとの批判を受けることも承知している。それでも、混沌世界での一方的な意見の押しつけは、社会における理性的な判断には貢献しない。また、SNSやマスメディアの情報や意見に触れた際には、それらがパニック的なものか、冷静なものかを見極めて、自身の意見や判断に活かして欲しい。

社会的パニックの例 その1:マスク問題

政府による「1住所あたりマスク2枚配布」政策が世間を賑わせている。皆が多くのマスクを欲しているときに、2枚というのは、一見何ともケチくさい印象を与えることは事実である。SNS上では、アベノマスクと揶揄されている。しかし、仮に、あらゆるウイルスを寄せ付けず、洗わずとも滅菌できるマスク1枚が配れれば、誰も文句は言わないであろう。もちろん、空想的な話だが、要は数の問題ではない。そのマスク2枚をどう使えばよいのか、それによってどういった効果を狙っているのか、さらに3人以上いる世帯ではとうすればよいのか、そもそも何故このタイミングなのかなど、この対策の妥当性を考える上で、誰もが抱く疑問が解消されないまま、憶測も含めたさまざまな見方が漂っており、まさに社会的パニック状態となっている。

政府も完璧ではない。しかし、そうした難しい状況の中で、政府が考える最善の対策を打っていることを丁寧に説明しない限り、政府自身が現在の対策で何が問題なのかも理解できず、アベノマスク問題の炎上は収まらないであろう。特に、わが国の政府は間違いを犯さないという無謬性を前提としていると言われるが、こうした態度は、事態が刻々と変化する中での柔軟に対策を変更していく必要がある。だからこそ、何故そのときにそういう対策を講じたのかを説明しておかなければ、首尾一貫性を問われる事態となる。

社会的パニックの例 その2:コロナ・ハラスメント

新型コロナウイルスに起因するハラスメント行為を「コロナ・ハラスメント」と呼ぶそうだ。感染者本人やその家族に対する嫌がらせ行為や、咳やくしゃみをしただけで嫌がらせを受けるような場合である。「大丈夫?」と心配の声をかけてあげる場面でも、「コロナ感染→自分や周りに危害を加えるもの」という考え方に縛られてしまい、普通では考えられない行動に走ってしまう可能性がある。こうした嫌がらせ行為がエスカレートしてしまえば、職場や地域にいることさえも難しくなるかもしれない。本来、「一人一人の命を守りましょう」ということで社会が一丸となっているところに、快復した元感染者が、結果として、嫌がらせによって健康を害してしまえば、まさに2次災害である。また、ハラスメント行為が横行すれば、陽性かどうか確認するための検査を受けることをためらう人も増えるであろう。こうした行為が、大きな悪影響を与えていることに思いを致すことが必要である。その他の類いのハラスメント行為でも同様であるが、こうしたハラスメント行為は、ともすれば無意識にやってしまっていることもある。特に、社会的パニック状態の局面では、起こりやすいことを心に留めておく必要がある。

社会的パニックとの闘いの武器は理性である

感染症に関する科学的知識に基づく公衆衛生教育が進んでいるわが国では、一般市民レベルでも、手を洗ったり、マスクをしたりすることで,自らを守りかつ他人への感染を抑制できることが知られている。一方で、感染には飛沫感染や接触感染、エアロゾル感染といったさまざまな形態があることや、丁寧な手洗い方法もコロナ騒動の渦中で知られるようになった。逆にこうした知識があれば、どういう場面で感染リスクがありそうかなどを判断できる。

ところで、専門家も含めて、さまざまな見方が飛び交っている。感染症に関しては素人の私でも、明らかに数字に意味が無いデータで議論していることもある。例えば、致死率を単純に検査で明らかになった感染者数を母数とした死者数の割合として計算しても、わが国のように検査数を制限している場合、明らかに実態より高い数字となる。こうした致死率をもとに、わが国と他国との医療体制を比較しても無意味である。

京都大学iPS細胞研究所所長の山中伸弥教授が自ら新型コロナウイルスに関するHPを立ち上げ、提言を発信されている[5]。想像するに、社会的パニックの事態を目にして、対策の遅れ、感染症対策が不十分である人々も少なからずいるということも含めて、社会全体がどう動くべきかを見失ったパニックの状況を脱することを意図して、ノーベル賞受賞者という学問的権威があるからこそ果たしうる自らの役割を自覚された上での行動されたのだと拝察する。先日、山中教授が敢えて専門家という立場から一歩引き、自らを「心配する一国民」というスタンスで、専門家会議副座長の尾身茂氏に質問をするという形式の番組があった。医学的知識がない私のような人間からすれば、十分に医学的知識の専門性が高い山中教授が、敢えて感染症の専門家でないという体裁をとって、理性的に行われたやり取りは、社会的パニックを脱する上で、少なくとも個人的には大きな意味があった。理性がより良き社会の根本であるという信念は、コロナウイルス禍においても変わらない。

押し売り意見に要注意

以上、現在のコロナウイルス禍を巡る昨今の状況を社会的パニックと位置づけ、皆一人一人が冷静さを取り戻さない限り、このパニックからぬけだすことができないことを訴えた。意見や批判の適切なマナーは、社会が理性を保つために、必要不可欠である。もし、熱くなって意見をまくし立て、「ああすべきである、こうすべきである」と断定口調で押しつけるような感じで話す人を見たら、一見勢いがあるように見えて圧倒されそうになるが、「待てよ。この方は社会的パニックに陥ってしまっているのでは?」と距離を置いて冷静に見るように心がけたい。もちろん、本稿の主張に対して、例えば「こんな緊急事態に生ぬるい」などの批判もあることは承知しているし、むしろ、そうした批判がある社会は健全である。私自身、冷静な批判は歓迎するし、そうした声を謙虚に受け止めて、修正を図っていきたい。

謝辞 本稿は、新型コロナウイルスの問題について、さまざまな方々と議論する機会を通じて、自らの頭の中を整理したものです。とりわけ、岡田憲夫先生(京都大学名誉教授)、山泰幸先生(関西学院大学社会福祉学部・教授)矢守克也先生(京都大学防災研究所・教授)、藤井聡先生(京都大学大学院工学研究科・教授)、山田忠史先生(京都大学経営管理大学院・教授)、山口敬太先生(京都大学大学院工学研究科・准教授)には、多くの刺激とインプットをいただきました。貴重な知見をご披露いただいた方々に対して、ここに感謝申し上げます。言うまでもなく、本稿の内容にかかわるすべての責任は筆者に帰するものです。


[1] 例えば、朝日新聞(2020年3月17日記事)https://digital.asahi.com/articles/ASN3J5SVYN3JUPQJ00Q.html参照。

[2] 例えば、4月1日に緊急事態宣言が出るとの憶測が出た。

[3] 例えば、お湯を飲めば感染しないなど、中には悪意を感じるものも含めてデマ情報が流れた。

[4] WHOがインフォデミック(infodemic)という言葉を公式に用いている。(https://www.who.int/docs/default-source/coronaviruse/situation-reports/20200202-sitrep-13-ncov-v3.pdf?sfvrsn=195f4010_6

[5] https://www.covid19-yamanaka.com/index.html